身近にあるけど見過ごしがちな自然を知るために「おいけのまど」周辺を散策してみた。
おいけメンバーのkashioさんと一緒に「木育」をしよう!と意気投合し、
まずは周辺の自然について知らんとあかんなぁと互いに思ったことがきっかけでの周辺探索。
以前ぷる博5にて、私主催の幼児向け(親も一緒に)お散歩企画した時のことにもつながる
「人と自然をつなげる」
を大事にしたいなぁと思い、私も人と自然を調べることにココロ躍らせる日々。
近くにあるビオトープ
まずは、ビオトープとは…
ギリシャ語で「生命」、「生物」を意味する ‘Blos’ と「場所」を意味する ‘Topos’ を合成してできたドイツ語 ‘Bio-top’ で、その言葉の
意味の基本は「生き物が住む事のできる場所づくり」です。
☆ ツバメが巣をかけた「人家の軒先」
☆ 稲穂に張った「クモの糸」
☆ カブトムシが産卵し、その中で幼虫が育つ「たい肥場」
☆ アカトンボが育ち、ホウネンエビが踊る「水田」
☆ ギンヤンマがスイスイと飛ぶ「溜め池」
☆ アゲハチョウが入れ替わり立ち替り飛来する「庭の花壇」
などはみんなそれぞれ立派な「ビオトープ」と言えます。
これらはみな、私達「自然回復を試みる会 ビオトープ孟子」が管理し次世代に受け継ごうと保護を行っている身近な
自然環境~里山~の重要な構成要素です。
つまり、植物連鎖の中に「人間」が入った「里山自然」はさまざまに入り組んだ「ビオトープの集合体」と言えるのです。
とのことで、まずは「ビオトープ 孟子」へ。ビオトープ孟子 (mo-ko.jp)
人間の作った環境でも、そこから生まれる生態系があって、耕作放棄地は今まで人間の手で守ってきた環境整備が
保たれなくなり、そこで育まれてきた動植物の環境が無くなることも意味している。
ビオトープ孟子は、行く気まんまんで行くと中にある孟子不動山まで1時間半を掛けることに(笑)
というのも、目に触れる木々たちを持ってきた図鑑とにらめっこしながら、この木はなんの木?をしつづけると片道1kmの道のりも
たっぷり時間が掛かることになる。
注意しないといけないカブレる木、いつも目にしているのに名前すら知らない木、図鑑に載ってない木をどう検索するのかなどなど。。。
それはそれで有意義な時間&あっという間の時間。なんだか心まで満たされて満足感がすごかった。
つづけて行くところはアドベンチャー
結局、ビオトープ孟子から3時間ほど経ってから、一度「おいけのまど」へ戻る。
この日は、和歌山市内にあるとある中学校のSDGsを学ぶのに「おいけのまど」で行っている農業体験を取り上げたいとのことで打ち合わせに参加。
あーだ、こーだ、話をしてヒトしきり盛り上がったところで、kashioさんは準備万端で行く気満々。見えないはずのしっぽがふりふりしているのが見えた。
おいけメンバーの林さんが所有している竹林があるとのことで、引き続き散策。
タケノコを採るときに入っている林。
近くには住宅地があるけれど、一歩林に入ればそこは藪藪。
環境を整備されたビオトープ孟子とは打って変わって、日ごろから人が入る頻度が極端に少ない場所となれば、
気温が暖かくなってきた自然環境はモリモリ。
引いてみれば茂っているだけかもしれないけど、植物からすればそこは戦場。
植物自身が住める環境をあれやこれやの戦略でひしめき合った結果で成り立っている。
植物はその場から動きはしないけど、人間のおくっている時間とはまた違う時間のペースで凌ぎを削って
我先に水分が取れる場所に根を張る
光合成に必要な光が届く場所まで伸びる
種をよりいい場所に届ける
などなどのその時の結果しか自然をみれていないけど、さまざまな要因で今の葉を伸ばすことをした
「戦い成果の表れ」
なんだと思うと、よくやった←上から目線
としみじみする。
それもそうと、眼下に広がるのはシダ、シダ、シダ。
kashioさんは私の思うことはつゆ知らず、ずかずか。鎌をつかって周りのシダを薙ぎ払いばつばつと。
「この先ってどう行くん?」
と言いつつ、アクティブな進行。
私の思考は、
道なき道を行くワクワクがたまらんぜぇ。と脳内を変なアドレナリンが悦で満たしつつ
冷静に暴走しぎみなkashioさんが進む進路のあらぬ方向から誘導し、
目的の地へ。
まとめ
たっぷりと朝10時から夕方17時の時間を周辺散策。
身近に自然と呼ばれるものは、当たり前にあるもの。
手を加えてある田畑、道沿いに健気に生えている雑草、人の手があまり加わっていない山部の木々たち。
知れば人にとっては危険な毒やトゲがあるもの、人の手がないが故に整っているところ、荒れたところ。
など様々。
その時を目の前に教えてくれている。
日々の人間の生活には、何気なくスル―されていることがたくさんあるけども。
目線を自然のものに向けてみると面白いことだらけ。
ささいなことなのかも知れないけれど、
ひとつひとつの植物だけをとってみても、そこにはその植物なりの世界があり、
その植物たちが複合的に構成されて自然が成っている。
ちいさな世界なのかもしれないけれど、
ひとつの草
ひとつの花
ひとつの木
それぞれの機敏に触れてみると豊かになる気がする。
そういうささいなものに出会える機会が増えれば、そして共有できれば
いいなぁと思っています。